すきなくらし

映画、ドラマ、小説、舞台等の感想記録と、たまに雑記

リーディングシアター『レイモンド・カーヴァーの世界』矢崎広&平田満 感想

村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーの作品を、役者が朗読する。

レイモンド・カーヴァーの世界



 

 

 

出演、作品

仲村トオル『コンパートメント』
矢崎広『収集』『菓子袋』
手塚とおる『ダンスしないか?』『もうひとつだけ』
平田満『愛について語るときに我々の語ること』

スタッフ

演出: 谷賢一
作曲・ピアノ演奏: 阿部篤志

はじめに

兵庫県立芸術文化センター中ホールにて開幕。
私は二日目の本日、矢崎広&平田満の回を観た。
矢崎さんファンだから元々矢崎さん狙いだし、更に残りのキャストだと平田さんが一番興味があるので、兵庫公演でこの組み合わせなのは、私にとってラッキーだった。

小説の内容に触れてるので、知りたくない方は「作品について」は読まないでください。
演出なども知りたくない方は、全体的に読まない方が良いかと。

レイモンド・カーヴァーの世界』

「朗読」と聞いた時、ただ椅子に座り、役者が淡々と読むものかな、と思っていた。
いわゆる、一人で小説を読む朗読ではない、座ってるけどやり取りがあるような、まさに「朗読劇」というものは観たことがある。しかし、ただ「小説を読む」というのを、ステージでどんなふうにするのか、あまりピンと来なかった。
そこから情報を確認すると、ピアノ演奏があるので、ああBGMがあるんだ、とは思ったが、それでもどんな感じなのかあまり分からないので、ワクワクしながら観に行った。
(余談だが、作曲とピアノ演奏の阿部さんの経歴に驚き)

ステージに置かれるのはピアノ、机、そして椅子だけ。
そしてそこに立つのは、ピアニストと役者だけ。

映像も使われるが、必要最低限のみ。
何よりもピアノ演奏と、照明が美しい。シンプルな美しさの中で、作品世界が際立つ。

小説はよく読む方だと思うが、自分で読むより他者に読んでもらう方が、脳がフル回転になると初めて知った。オーディオブックとかだとそうでもない気もするが……作品にもよるかと思う。
とにかく疲れた。極限まで集中した、心地良い疲れ。

矢崎さんも平田さんも素晴らしく、二人の朗読により作品世界にのめり込めばのめり込むほど、終わった時の疲労感が凄かった。
普通の演劇より疲れる。
でもこの感覚は、また経験したい。

作品について

『菓子袋』(矢崎広

何故息子にそんな話をするのか。ただ聞いて欲しいだけなのか、男同士の打ち明け話なのか。いったいどんな言葉を息子にかけて欲しいのか。

地の文で、ラウンジにいる女性の様子がさらっと挟まれ、描かれる。父と息子ではない、他人のことが描写される、私はそこに、息子の父親に対する無関心さを感じて、虚しい。

取り残された、置き去りにされた菓子袋。「まあいいさ」という程度で終わるそれは、父に対する息子の態度を象徴しているよう。

息子自身、奥さんとどういう関係にあるのか。何か問題があるのか。ラストは意味深だ。だが、それは明らかにされない。

『収集』(矢崎広

今回の三作品の中で、唯一読了済だった作品。
これが一番ゾクゾクする。奇妙な話だ。
しれっと他人の領域に入り込み、入り込まれた方もそれを抑制出来ない、もしくはしない。

「収集」して語り手に見せるゴミの数々。「あなたはこんなに汚れていたんですよ、それを放置していたんですよ」ということを、あらゆる意味で見せつけてくるようだ。

最後に手紙を持って行ってしまう、語り手の男もそれをそのまま眺めている。彼はあんなに郵便を待っていたのに。
掃除されて、全ての汚れを取り払われて、もう手紙のこともどうでも良くなったのか。この手紙も、男によって「収集」され、ここには何も残らないのか。キレイさっぱりと。

私はゾクゾクすると言ったが、一緒に行った母は「キレイにしてあげてる」「過去を精算してあげてる」とも言えるのでは、と言っていた。
なるほど考え方としてはポジティブな印象になる。
やっていることは同じ、語り手の男の部屋の、ゴミの「収集」。この行為はいかなる意味を持つものか。
男は「収集」されたことによって、今までと違う未来に行くのか、世界が開けるのか。過去は捨て去って。

『愛について語るときに我々の語ること』(平田満

語り手の男(ニック)はほぼ聞き役で、「愛について語る」のはメルという中年男性。
結局「愛」とはなんなのか、答えは示してくれない。

それは他人から見たら「愛」だとは思えないことでも、当人にとっては愛なのかもしれない。

自分達はそれぞれ、過去にも他に愛した人がいた。今のパートナーも、これからどちらかに何かが起こったら、しばらくは悲しむが、いずれ次にいくだろう。別の誰かを愛するだろう。
つまり、ひとつの愛は不変ではないということを語る。

しかしその一方で、交通事故にあった老夫婦の話もする。
妻が快方に向かってるのに落ち込んでいる夫。それは妻の姿を見られないから。

「やれやれ、その爺さんときたら、古女房の顔が拝めないってだけでもう、今にも死なんばかりだったんだぜ」
我々はみんなメルの顔を見ていた。
「僕の言いたいことわかるかな?」と彼は言った。

これぞ愛だろう、とメルは言いたいのだろう。まさに、これぞ愛だ。

あらゆる愛について語り、おそらく最後は皆、これまでを、これからのことを考えている。愛は永遠に続くのか。一抹の不安がよぎる。思考に耽る。身動きが取れない。

レイモンド・カーヴァーという作家

私が読んでいるのは短編集一冊のみだ。この作家について語れるほど詳しくない。
ただその一冊、そして今回耳にした物語の印象はどれも、「虚しい」。虚無感が残る。

カーヴァーが描くのは、劇的な出来事ではない。起承転結がないわけではないが、ほぼないも同然のような印象を与える。
その辺にいる単なる、他人にとって取るに足りないような一市民の、取るに足りないような一場面を切り取る。ぽんと切り取って、ぽんと読者の前に差し出す、後はお好きにどうぞ。それがカーヴァーだ。

取るに足りないような一市民。それはつまり、私たち多くの人間が当てはまる。
物事は、人生は、白黒はっきりつくことばかりではない。ぼんやりしたものが漂って、それがずっと続く。そういう人生を、カーヴァーは描く。

だから虚しいのだろうか。
私たちの人生は、他人にとって取るに足りない出来事の連続だ。でもそれが自分の心と人生を多く占め、それとずっと付き合っていかないといけない。

役者

矢崎広

矢崎さんの朗読が始まった途端、自分の想像と違っていたことが分かった。
もっと淡々としたものだと思っていた。それがもう完全に「芝居」。一人芝居のようだった。

そもそも元の声が良いので、心地良さを感じる上に、声色の使い分けが実に見事だった。

基本は座っているのでその範囲内だが、動作や体全体としても役を演じている。
ちょっとした座り方や目線の動き、こんなに矢崎さんの芝居が堪能出来るとは、思いがけない喜び。

『菓子袋』で強く感じたのが、二人の人物の演じ分け方について。声色や話し方で演じ分けてるのはもちろんだが、特に目線の振り方、これが完璧に落語だった。「落語やらせたらいけるんでは……」と思ったので、いつか落語家役を是非。

平田満

母が平田さんファンだ。ベテラン有名人なので、私もいくつかのテレビドラマで馴染みがある。大好きな渡瀬恒彦さんが主演だった、『タクシードライバーの推理日誌』にもずっと出ていた、すでに懐かしい。

平田さんは、矢崎さんに比べてあまり体を使った表現は行わなかった。なのに、声だけで表せるその世界。ベテランの貫禄はさすが、圧倒される。
アフタートークでの素の様子だと、なんだかこじんまりとして見えて、役に入っているとなんて大きく見え、存在感があるのだろうと思った。
朗読ではない演劇も、是非とも見てみたい。

プロが演じる、朗読というものの凄さ

まず一番最初、矢崎さんの朗読が始まった時、矢崎さんの顔を見ていると集中出来ないような気がして、少し視線を外した。だが、すぐに戻した。それはこれが「芝居」だと思ったからで、だったら声だけではなく、役者の演技を見なければ、と思ったからだ。

だから矢崎さんの芝居を見ていた。やっぱり矢崎さんの芝居が好きだなと思っていた。あの視線、表情。

なのに、それを意識しながらも、いつしか頭はトリップ状態になっていた。
矢崎さんの動きは目にも入り、ちゃんと脳にも届いているのに、私の脳内は彼の語る作品の世界に溺れていく。目の前で読んでいるのに、彼はまるで存在しないようになり、彼だけでなく全てが消え去り、私だけが彼の語る作品の世界に取り込まれているような。そんな感覚を味わった。

それが、平田さんの時も同じだった。目の前で見ているのに、いつしか私の感覚は全てその作品の中に放り込まれる。

この感覚が、かなり疲れる一方で心地良く、更に滅多に経験出来ないような感覚な気がして、ああこれが朗読の醍醐味か、と思った。素晴らしい役者が演じる、朗読の。

アフタートークの印象

アフタートークのレポなどは記憶力の関係により出来ないので、印象を。

素になると、この御二方は案外似ているかもしれないな、と思った。
ふわふわとしていて穏やか。
平田さんはずっと厳しいイメージを持っていたので、そもそも今回の公式サイトのコメント動画を見た時点で、思ったよりかなり穏やかそうな人だな、と驚いた。

二人とも演技だと存在感が凄いのに、素だとその辺にいそうな雰囲気になるところとか似てる。それ故にか、あらゆる役に対応可能なとことか。
あと口下手っぽいところも。
二人並んでると父と息子のようで、微笑ましかった。(父と息子役やって欲しい)

作品についてのことを順に振られて、当然思うところはあるだろう、本を自分たちで汲み取って演じているだろうに、上手く言葉に出来ない矢崎さんと平田さん。カーヴァー作品については特に、言葉で表現することが難しいと思う。感覚的に捉えてる。

それを見事に言葉にしていく谷さんは、流石演出家だと思った。自分の感覚を、イメージを、印象を、他人に伝えないといけないから。頭がキレるんだろうと思う。
私も上手く言葉に出来ない、自分の感覚を言葉で上手く人に伝えられないので、こういう方は尊敬する。

が、最後急にベラベラと話し出した矢崎さん。
おそらく谷さん、平田さんの会話を聞いてる間に、自分の中で整理がついたんだろう。
他人の言葉、議論って大事だ。自分の考えもハッキリしていくから。

三人の話が聞けて良かった。アフタートーク付きにしてくれてありがとうございます。

終わり

『収集』含む短編集の『頼むから静かにしてくれⅠ』しか読んでいなかったので、残り二本が収録されている『愛について語るときに我々の語ること』を帰りに購入。
ちなみに『大聖堂』も積んであるので、また読みたい。
カーヴァー作品は訳が分からないけど、虚しいけど、その世界に浸ることは決して不快な感覚ではない。

今回「朗読」というものの魅力がよく分かった。役者が演じ、彩りを与え、生身の人間を描き出し、聞き手を作品世界に没頭させてくれる。
またこの感覚を味わう機会を、楽しみにしている。

ついでに希望を言うと、私はトルーマン・カポーティが大好きで大好きで。
レイモンド・カーヴァーと同じく、村上春樹カポーティ好きで、翻訳もしている。
だからつい考えてしまっていたけど。
いつか、カポーティ作品の朗読の企画も、よろしくお願いします。

矢崎さん関連はこの辺もどうぞ。もしくはカテゴリーから。