すきなくらし

映画、ドラマ、小説、舞台等の感想記録と、たまに雑記

音楽劇『ライムライト』 輝く若者と消え去る老人

音楽劇『ライムライト』を観劇してきました。
初演から4年を経ての再演。
私は今回が初観劇です。

映画は鑑賞済。小説は未読。
映画との差異などにも触れつつ感想を語っていこうと思います。

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2019年4月28日、29日 @梅田芸術劇場シアタードラマシティ

出演

石丸幹二
実咲凜音
矢崎広
吉野圭吾
植本純米
保坂千寿
佐藤洋介
舞城のどか

スタッフ

原作・音楽: チャールズ・チャップリン
上演台本: 大野裕之
音楽・編曲: 荻野清子
演出: 荻田浩一

"The glamour of limelight, from which age must pass as youth enters. A story of a ballerina and a clown..."
「華やかに輝くライムライトの影の中、老いたものは消え、若者は彼に代わっていく。バレリーナと道化の物語」

映画

前置き

この音楽劇、脚本は大野裕之さんが脚本ということで、割と期待していた。
大野さんはあの傑作映画『太秦ライムライト』(『ライムライト』のオマージュ作品)の脚本も書かれていて、これが最高に良かった。また『日本チャップリン協会』の代表で、この方がいたから、世界唯一の『ライムライト』舞台化が実現したんだろうな、と。

音楽劇は、ほぼ映画を忠実に再現している。
受ける印象もほぼ同じ。
人生の悲哀切なさ美しさ絶望、そして
老いた芸人の物語で、ステージに立つ仕事をしている人にはまさにそのまま感じるものがあるだろうが、彼らだけではなく、すべての人の物語でもある。
ラストシーンの輝きあふれる美しさ。眩しさと影。美しすぎる対比が心に触れ、思わず涙がこぼれる。

感想

元は古い映画なのでネタバレも何もない気もするけれど、割と詳細に舞台(と映画)の内容に触れるので、知りたくない方はここからは読むのをやめてください

「老いは消え、若さに代わる」このフレーズを映画を観る前に目にしたときは、登場人物からしてなんとなく無意識に、「若さ」はネヴィルだと思った。
二人ともテリーに思いを寄せている。老人は若者に敵わない。消えるしかない。
が、実際に映画を観たら違うことが分かった。若さとは、テリーだ。そのことが今回の音楽劇のラストシーンで、より強く私に印象付けられた。
カルヴェロのステージが終わった後は、テリーのステージ。死にゆく中テリーを見守るカルヴェロ。
スポットライトを浴び、自身からも輝きを放ってテリーは踊る。それを陰から見ながら、そのまま逝ってしまうカルヴェロ。
光と闇。カルヴェロは自身最後の輝きを放った後に陰となり、それからテリーが輝いた。引導が渡されたよう。
この対比があまりに美しく、舞台ならではの光使いに心奪われた。どうしても涙がこぼれてしまう。
この舞台でのラストシーンは忘れられない。思い出すだけで泣きたくなる。美しすぎて、悲しすぎて、でも明るく輝きすぎていて。
これが人間の人生。

(このラストの照明が美しすぎて、思わず普段は確認しない照明さんの名前をチェック。勝柴次朗さん)

結局老いたものはいずれ消える。どんなに愛されていても。そして若者が引き継ぐ。世の中はその繰り返し。
その若者も、やがては老いる。
当たり前の、人生の切なさ。だがそれ故に美しい。

音楽はどれも良くて耳に残る。舞台オリジナルも良い。

一番有名な映画『ライムライト』の曲は『エターナリー』。私はこれを別題の『テリーのテーマ』として覚えていた。
訳詞が良い。

若者は輝き 年老いた影消え ライムライトは魔法の光
愛するあの人よ 永遠に輝け 愛の意味を教えてくれた

『エターナリー』がテリーのテーマなら、カルヴェロのテーマは舞台オリジナルの『この男は誰?』
そしてこれも舞台オリジナルの『テリーとネヴィル』、これは私はテリーとネヴィルのテーマだけど、よりネヴィルメインのテーマに感じた。
これらオリジナル曲の詩も良かった。

愛と呼ぶのか 哀れみなのか 憂いに沈むテムズのほとり

リプライズのネヴィルの歌う歌詞。

孤独で不思議な暗い瞳に 淡い憧れが育まれて

今回の2回の舞台観劇で、カルヴェロはもちろんだが、私はテリーに深く同情する場面があった。
「愛してる」と訴えても、受け止めてもらえない。本当は二人は深い愛でつながっているのに、それをないもののように扱われることの痛み。
思い出の中のネヴィルとの淡い両片思いはとても美しいけど、このカルヴェロに向ける愛のなんと強く真摯なことか。
愛が伝わっているのにはぐらかされる。カルヴェロとテリーも、ネヴィルの時とはまた違った両片思い。悲しいすれ違い。
でも美しい愛はきちんと昇華される。ショーによって。

一幕ラストのテリーの姿はまさに「愛する人のために立ち上がる」姿で。テリーはすでにカルヴェロを深く愛していたんだなあ。

「愛」が深い作品だ。
テリーへのカルヴェロとネヴィルの愛、カルヴェロへのテリーの愛、音楽へのネヴィルの愛、ステージへのテリーとカルヴェロの愛…。
人生の中にあふれる「愛」について描かれた、切なく美しい物語だ。

映画『ライムライト』と音楽劇『ライムライト』の差異と、それに付随しての感想、メモ

気になった、映画と舞台の違いを挙げたい。

作品内最初の、カルヴェロのステージシーン。
舞台では、時は1897年。楽屋ではアルコールをあおり、偉そうで、傲慢にさえ見えるカルヴェロ。5番目の妻もそばにいて、カルヴェロは彼女もステージにあげる。
生き生きとショーをするカルヴェロ、しかし妻が若い男と踊っているのを見、ケンカし、舞台も投げ出してしまう。
これがカルヴェロが落ちぶれた「きっかけ」として描かれているようだ。
音楽劇では、先ほど少し触れた、音楽劇オリジナルのカルヴェロのテーマソングがある。「この男は誰?山高帽とステッキの男。この男は誰?世界で一番面白い男」。
最初はこの歌に合わせて自信に満ち溢れているカルヴェロ。グダグダの舞台になった後に客に歌われるこの歌詞の、なんて皮肉なことか。彼はもうこの瞬間から「世界で一番面白い男」ではなくなった。
ここで「笑いの女神に見放された」のだ。

そして映画での最初のカルヴェロのステージシーン。
それは夢の中だ。カルヴェロは夢を見る。舞台と同じく過去の、自分が絶頂の、売れていて、ウケていて、世間に求められていた時のステージだ。
「ノミのサーカス」をしている。(これ楽しみにしていたけれど、舞台ではノミのサーカスなかった…)
演じるチャップリンのパントマイムが光るシーンだ。観客の拍手が響いている。が、カルヴェロはふと気づく。客席に誰もいないことに。
これはカルヴェロの恐怖がそのまま表れた悪夢だ。あんなにあの芸で観客に求められていた。それがいつしか、誰も笑わない。観にも来ない。自分はもう世間に求められていない…。

映画では舞台のように、カルヴェロが落ちぶれたきっかけとしてのステージは描かれていない。
舞台ではその「きっかけ」としてのステージが描かれているため、カルヴェロの傲慢さと弱さが招いた結果であるような印象を受ける。こういうと冷たいようだが、自業自得の面が強い、と。
だが映画は違う。特にこれといったきっかけはない。ただ時代の流れ、観客が求める笑いに、カルヴェロが応えられなくなったということ。カルヴェロが貫いてきた笑いは、もう世間に通用しなくなったということ。
だから映画の方が、虚しさが強い。

そもそも映画において「ノミのサーカス」はおそらく重要要素だ。ただ舞台ではあの場面の再現が難しいのかもしれない。あのパントマイムも。
「ノミのサーカス」はとても前時代的な印象を与えるので、あのショーの場面によって、カルヴェロがいかに時代に取り残されているかを私たちは知ることとなる。
しかしその「ノミのサーカス」、さらには「空っぽの客席」が舞台で再現できないとなると、きっかけを作った方が分かりやすかったのかな、とは思う。

5番目の結婚設定も最初意味わからんなと思ったけど、もしかして映画にはないけど原作小説にはあったりするのかしら。

カルヴェロの人生最後のショーだ。
アンコール。
映画ではここはバスター・キートンとの共演だ。最後まで笑いを取り、そしてステージから去る。
しかし舞台では、アンコールは美しい一曲の歌。『You are the Song』。テリーへの愛の歌、だろうか。
チャップリンが未完の別映画のために作っていた曲である。(こんなの許可取れるなんてすごいな)

この場面には感動しつつも、頭の片隅に引っ掛かりを感じていた。
カルヴェロは喜劇に生き、プライドを持ち、こだわり続けた喜劇俳優だ。人生最後のステージ、笑いに包まれた空間をそのままにせず、しっとりと美しくしめた。彼の人生最後が、笑いでなくていいのだろうか。

この引っ掛かりは頭から抜けないけれど、最終的には、まあいっか、って。

舞台のパンフレットを読んで納得することもあった。
あの『ライムライト』において、チャップリンキートンの相棒としての共演は、特別な意味を持つ。それを舞台では再現できない。
詳細は省くがいわく、そこから試行錯誤され、「音楽劇ならではの名場面が誕生した」と。
そうかもしれない。これがこの「音楽劇」としての『ライムライト』に、その中のカルヴェロにふさわしいラストステージと考えても、別に良いんだろう。
これは映画と同じものであって、同じものではないのだから。

もうひとつ地味に大きい違いだなと思ったのが、以下のシーンだ。
プリマドンナとしてステージに出る直前に、「足が動かない」と絶望に陥るテリーに対しての、カルヴェロの対応。
映画ではカルヴェロは、テリーに平手打ちする。テリーの目を覚ますため。
舞台では、そっと抱き締める。カルヴェロの温かさ、愛情によってテリーは励まされる。

この変更はどういう意味だろう。
ただ単に作品の作られた時代による違いなのだろうか。
愛情がありつつも厳しい平手打ちじゃなくて、ただ包み込む優しさが人を癒すということだろうか。

まとめ

この①②(最初のステージシーンと、最後のステージシーン)の違いは、とても大きいもののような気がする。
これらの変更点によって、作品の印象ががらりと変わってもおかしくない。
しかし最初にも述べたが、「受ける印象はほぼ同じ」だった。
作品から受ける切なさ、哀しさ、愛しさは、映画と変わらない。これはすごいことと思う。
映画から舞台を作り上げるにあたって、変更せざるを得ないことというのはどうしても出てくる。今回の変更点は下手すれば全然違う作品のような印象を与えそうだが、それが全くないというのは、いかに製作陣がオリジナルの作品を大事にしているかがわかるようだ。
空気感をとても大事にしたんだろう。

ついでに、映画と違いがあったか分からないけど、触れておきたいことをメモしておく。

これも気になった点だが、最後のショーの前に確かポスタントのセリフで、「もう昔のカルヴェロじゃない(からウケなくても仕方ない、というニュアンス)」という言葉がある。
私はこれには違和感を覚えた。
映画でもこのセリフがあったかは覚えてないけど…。
なぜなら私の解釈では、カルヴェロがウケないのは、「昔のカルヴェロじゃない」からではなく、「昔のカルヴェロのまま」だからだ。
時代は変わるのに、世間の求めるものは変わるのに、カルヴェロは変わらず、昔の芸にしがみついているからだ。そう思った。
人は変わらないといけない。でないと時代に取り残されていく。いや、本当に変わらないといけないのか?
カルヴェロの姿は切ない。

「映画のせい」というようなセリフもあったけど。
文化の移り変わりと発展は、それについていけない人には憎みたくなるものだったのだろうな。
サンセット大通り』や、これは明るいけど『雨に唄えば』なんかを思い出す。あれらはサイレントからトーキーへの移り変わり。
(これはただの余談)

キャスト(とキャラクター)感想

矢崎広 as ネヴィル他

毎度おなじみ、お目当ての矢崎広

まず歌のこと。
音楽劇だし、映画を観てのネヴィルの立ち位置から、歌はあまりないと思ってたら、まあ少ないけどそこそこあって良かった。
そしてまず第一声から驚き。
最初のソロはワンフレーズ。一幕のテリーがネヴィルを思い出して歌う『テリーとネヴィル』。
「名前はネヴィル 屋根裏に住む」
もう、聞いた瞬間「はあ?」ってなった。「何者?」って。矢崎さんの声じゃないようで。
『スカーレット・ピンパーネル』で歌を聞いた時と同じ感覚。
声が変わりすぎてて驚いた。発声が。またレベルアップしてる。
最近毎回「上手くなった」って思ってる。とどまるところを知らない。
もちろん相当の努力をしているだろうし、さらにそれがきちんと結果となって観客に伝わってるので、もう素晴らしいなと。
次のミュージカル出演がまた待ち遠しい。

そして演技。
今回はネヴィルというメインキャラ以外に、一幕で多くの役を務めた矢崎さん。
観に行く前からtwitterで「矢崎さんのドア」というフレーズをさんざん見かけていて、「ドア???」って思ってたけど、本当にドアだった。ふくれっ面で可愛さを全面に押し出したドアの演技。
私個人として一番良かったのは、カルヴェロの復帰ステージの時の冷たい観客役。
私は矢崎さんは冷たい役だったり最低な役だったり悪役だったりが実はめちゃくちゃ上手いと思っているので、このチョイ役は本当に良かった。
カルヴェロを見下す視線、ガラの悪さ。あの纏うチンピラオーラが最高。

とはいえ今回のメインはネヴィル。
映画ではチャップリンの実子が演じていた。関係ないけど超絶男前。まあチャップリンも実は男前だし。
で、このネヴィルという男は優しくて真面目で誠実で、控えめに言ってとても素敵な男性。
まず一幕のテリー回想内(『テリーとネイル』)でのネヴィルがあまりに素敵。憂いのある矢崎さんの瞳。どこか哀しそうで、孤独をまとっている。二幕の甘いセリフよりもここの表情が一番私の心に突き刺さった。
が、二幕のネヴィルのその甘いセリフがまた良い。twitterでこれまた普通にセリフのネタバレを食らっていたのですが、実際聞くときゅんとする。
「軍人からのダンスの誘いは断れませんよ」と、「僕のことを好きと言って」。私はこの後者のセリフに胸打ちぬかれた。あの切なげな、必死な、すがりつくような。こういうのに弱い。

テリーとの再会で一生懸命話そうとする姿は可愛かった。
でもあそこの会話での二人それぞれの態度に、今もテリーのことを想うネヴィルと、ネヴィルへの恋心は過去のものとなっているテリーと、違いがはっきり見えて、ネヴィルがちょっとかわいそうになる。
テリーは普通だけど、ネヴィルはいっぱいいっぱいで。恋をしているか否かが傍から見てよく分かる。

ネヴィルの純粋さをよく表していた、矢崎さんの全体の演技。
ラストのカルヴェロの死では、ネヴィルだけカルヴェロを見ていて、泣きじゃくる。他の皆はテリーの踊る姿にくぎ付け。(映画では全員静かにカルヴェロを見ている)
ここの演技、演出は良いとは思いつつ、ネヴィルがいくら何でも優しすぎでは?という感想も拭えず。
いつの間にカルヴェロにそこまで思いを寄せたのか。愛する人愛する人だから、ネヴィルもカルヴェロを愛したのか。
初演からこうなのか?それとも今回から?
矢崎さんだからこの演出なのか…?
しかし美しい姿だった。

美咲凛音 as テリー

歌はあまり私好みではなかったみりおん。
ですが、とても「綺麗」。輝きを放っているし、後半には生命力を感じる。テリー役にぴったりだなあと。
カルヴェロへの真摯でまっすぐな愛情も美しいし、それにテリーは強い女性だ。だから好感度高い。

矢崎さんのとこでも述べた、ネヴィルとの再会シーン。テリーはとてもはきはきとしている。
テリーにとってネヴィルは思い出の恋。今の彼女の愛情はカルヴェロにまっすぐ向けられている。

ネヴィルとのことは「愛と呼ぶのか 憐みなのか」と歌ったのに、カルヴェロのことは「憐みだ」と言われると「憐み以上のもの」と言い切った。
かっこいい。素敵。

石丸乾二 as カルヴェロ

主演の石丸さん。

石丸さんは個人的にはシリアス一辺倒の役より、ちょっとコメディ的というか、ひょうきんな役が似合うと思う。『スカーレット・ピンパーネル』を観た時にそう思った。
だから今回の役には期待していたし、実際期待通りだった。が!!ひとつどうしても引っかかることが。
というのは、石丸さんの老け演技が、私の想定する年齢よりけっこう上に感じられたこと…。
私が映画の『ライムライト』を観て受けたカルヴェロの年齢の印象は50代後半くらい。チャップリン自身は製作当時63歳くらい。(チャップリン若く見える)
なのでそのイメージでいたところ、石丸さんのカルヴェロの演技は、70過ぎくらいって感じ…。
テリーのイメージは映画舞台共に20代後半くらいかなって思うから、映画だと30歳差くらいなんだけど、舞台だとそれ+15歳差くらいって感じで…。いくらなんでも年取りすぎでしょ!
と私は思ったんだが、まあこれは個人の印象というか、主観なので。とりあえず置いておく。

その年齢の印象を除けば、石丸さんのカルヴェロは素晴らしかった。
芸人のプライド、悔しさ、哀切、優しさ。にじみ出る。

ところで、「映画との違い」で述べた①②のほかにもう一か所ある、カルヴェロのステージシーンのことをここで話したい。
映画舞台共通の、復帰ステージシーンだ。(矢崎さんが冷たい観客役をやったところ)
ここのステージは、映画と舞台の印象は差異のないものになっている。(正確に言うともう一か所ある。テリーとステージに立つ、カルヴェロの夢のシーンだ。映画では夢の中のショーが映像化されているが、舞台ではテリーへのカルヴェロの説明のみ、でも歌ダンスはあり。)
復帰舞台で、客は誰も笑わず、挙句の果てに帰り始め、ステージに立つ者にとってこれ以上ない屈辱を味わうのだ。

ここに見えるのはただただ悲しい老人の姿。プライドをズタズタにされ、打ちひしがれた芸人の姿。
観ている私たちは、彼に同情を禁じ得ない。時代に取り残された彼には、どうしようもないことなのだ。だから悲しい。
この復帰ステージで上手くいかず、「あの男は誰?世界で一番面白い男」を必死に口ずさみ、自分に言い聞かせている姿が、哀れさを誘う。

情けない、哀しい、辛い。ここの石丸さんの演技が良くて、観てて辛くて、地味に引きずった。

テリーから想いを寄せられて、カルヴェロもテリーを愛しているはずなのに、その愛に応えようとしない。単純に年齢差のことだけではなく、ステージに立つ者同士、そして今の落ちぶれた役者と、今から輝いていこうとしているダンサーという立場の違い、それに対しての彼のプライドというものが複雑に絡んでしまっているように思う。
テリーのことは愛している、彼女の輝く姿も嬉しい、でも辛い…。自分はもうあのように輝けないのか…。

でもラストシーンは。カルヴェロの最高のステージのあと、テリーの輝きを観ながら逝く姿は。
ステージを託すとともに、彼女の愛を受け止めて逝ったようだった。

ところで少し気になったのが、最後のショーの前、ネヴィルは来てるのか気にしていたところ。来ていると聞いて喜んでいた。
矢崎さんについて書いたところで、「いつの間にカルヴェロにそこまで思いを寄せたのか。」と書いたけれど、カルヴェロの方にも同じことが言えるかも。
カルヴェロとネヴィルは、いつの間にそんなにお互いを思っていたのだろう。
あの二人にはやはり通じるものがあったのかもしれない。だって二人とも、テリーを愛しているのだから。

他のキャストも良かったけど、個人的には保坂さんが印象的。
それから佐藤さんのダンス。

終わりに

やや文句言う感じにもなってしまったけど、トータルとしてはとても良かったです。
本筋とは関係なく気になる点もあったりして(中年女性の扱いで笑い取ったり)、ここは今後再演を重ねるならば、正直改善してほしいところ。今の時代にこれはないわ。まあいまだに多い手法ではあるけれど。

役者陣も素晴らしかったし、何より重大な設定変更をしても元の映画の空気を全く損なわず、また別の『ライムライト』を作り上げた製作陣がお見事でした。

しかし「テリーのテーマ」があまりに美しすぎて、チャップリンは本当に天才だなあって思った…。